情報技術の畑で十何年、企業勤めをしていました。
分野としてはインフラ、ソフトウェア、統計ですがITに関することであれば幅広く経験しています。

ITとの関わり

 私は福岡で生まれ育ち、ITとの関わりは父が仕事で使用していたパソコンを目にしてからですので、幼少期からです。高校も大学も情報技術系を専攻していて、その流れのままIT技術者として東京に上京し、就職しました。

技術者としての裏付け

 そんなわけでプログラミングを頑張るぞっと思い就職した会社ですが、配属プロジェクトは会社としても初の試みのインフラ設計・構築(※)でした。
※ネットワーク、サーバ、セキュリティ等。アプリケーション開発以外と考えてもらってOKです。

このプロジェクトが当時、日本でも3大プロジェクトの一つである金融業界向けのシステム更改だったのですが、金融業界ですので相当ハードな要件を依頼されます。そのおかげで仕事の基本や幅広い(本当にめちゃくちゃ広い)設計項目に携われました。先輩や同僚も逃げ出すくらいキツいプロジェクトでしたが、ここで仕事の素地は身につけられたので万事OKです。(長いこと勤めなければ…)
サーバのメンテナンスの方式やプログラムも覚えることができました。

そこから関西に移り、仮想化(※1) が流行りだした頃でもあり、シンクライアント(※2) 案件に関わることができ、学校向けにセキュアな環境を提案、導入を行いました。ネットワークスペシャリストを取得したのもこの時期です。20代で取得できたことは自分に自信を与えてくれました。

天職との出会い

 そして私の中で最も天職だと感じている医療機関向けのパッケージシステムの導入プロジェクトに携わり、関西エリアを担当していました。院内ネットワークの構築と、医師が利用する画像診断システムのカスタマイズという職務でした。多くの病院には既にシステムが導入されているのでリプレイス(導入5年スパンによる新しい機器への置き換え)がほとんどなのですが、大規模の病院になると大体は長い休みの時期に置き換えます。夜中に新しいシステムにネットワークを切り替えた後、プロジェクトメンバー(多くて50名)で院内を走り回ってパソコンにソフトをインストールして回ります。トラブルもその夜中に解消します。次の日の早朝(徹夜)から運用立ち合いといったハードワーク。お祭りですね。

自分には非常に相性が良い仕事だったと思っています。一連の業務に真摯に取り組んでいったので、技師や医師とは信頼関係が築けていて、それが楽しかったのです。安心でもありました。

そしてあるプロジェクトで転機を迎えることとなります。それも大規模だったのですが、一つ難しい要件があり、会社としては対応不可能という判断が一度なされました。私の頭の中では不透明な部分はあったものの、それさえクリアできれば可能性はあると考え、時間が欲しいとメンバーに伝えました。稼働まで半年。その難しい要件だけに向き合ってもいられない…

メンバーは特に何も言わず、私が検証を行っていることを黙認してくれました。およそ2か月。普通ならばさっさと諦めろと言われてもおかしくない期間です。芽は出ました。

それからプロトタイプを病院に持ち込んで検査結果を取り込み、あるべき結果になるまで何度も何度も作り変えました。さらに2か月が経っていました。その頃にはひな形が完成し、顧客も声こそあげないけど喜んでいるのがわかりました。残りの2か月、優先度の高い検査に対応するために病院に詰めていました。

そして迎えた稼働日はほとんどの点において稼働前のシステムより優れていると評価を受け、部門責任者より全ての検査に対応できるようシステムを完成させたいとの依頼がありました。

利益度外視の対応をしてもよいものかと社内でも相談を行いました。上長をはじめ同僚も、ここまで仕掛けたのだから完成させてしまえとのことでした。

稼働からしばらく経った4月の頃、そのプロジェクトのすべてを終えて社内に戻ったところ、いろいろと声がかかりました。よい報せでした。けれども、私は職を変えることを考えていました。もっと会社の根幹に携わる仕事をしたい、と。

ちなみにですが、完成させたシステムは学会での発表が行われ、僭越ながら共同研究者として名前を連ねています。

その後のこと

 それからは情報システム部門に転職し、事業の売り上げにつながる施策や、ペーパーレス、リモートワーク等といった業務のアップデートや働き方改革に対応する仕事を行いました。これはこれで難しい課題も多くありましたが、自分の属する組織に力を使い、その反応がダイレクトに味わえるやりがいのある日々を過ごし、2020年にITに関する相談請負を始めたいと考え独立しました。